本牧神社の「お馬流し」神事は、永禄9年(1566年)から400年以上も受け継がれており、現在、神奈川県無形民俗文化財、及び神奈川県民俗芸能五十選に指定されています。

「お馬さま」とは、茅(カヤ)で作った馬首亀体(=首から上は馬で胴体は亀のかたち)で、頭部からの羽や、長い尾を含めると体長約一メートル。馬首には白幣、口には稲穂をくわえ、亀体の中央には大豆と小麦をふかして、黄名粉をまぶしたお供えと、神酒を白素焼き皿に容れて神饌とします。

お馬さまは、旧本牧六ヶ村(間門、 牛込、原、宮原、箕輪、台)に因み計六体が奉製されます。もともとは六ヶ村それぞれで調えていたものと考えられますが、いつの頃からか六体全てを「やぶ」の屋号を持つ羽鳥家の当主が奉製する習いとなりました。七月下旬、神社境内の茅場にて神職と氏子が祓いを重ねて育成した茅を刈り取り、「やぶ」の当主自身が斎戒沐浴し一週間かけて作り上げます。このお馬さまにあらゆる厄災を託して本牧の沖合い数キロの海上に流し去るのがこの神事の趣旨です。一旦放流したお馬さまが陸地へ還着することを極度に恐れるため、潮の干満を重視します。このため祭日は旧暦6月15日大潮の日に決まっていましたが、明治に太陽暦が採用されてからは8月第一か第二日曜日の何れかが充てられ、毎年一定しません。


第一日目

「本牧神社例祭」の斎行に先立って羽鳥家から神社へと「お馬迎え式」が行われます。六体のお馬さまはそれぞれ「お馬板」と称する扇形の檜板の上に安置され、恭々しく頭上から頭上へと渡し継がれ、決して目線より下げません。奉戴する総代は真夏にもかかわらず紋付絽の羽織に袴、白足袋、白鼻緒の草履という正装姿。一歩進むごとに両脚をそろえて静止するという緩歩で、炎天下、約50メートルの間を半時もかけて鄭重に行われるお馬迎え式は、氏子のお馬さまに対する畏敬の念の表れともいえます。

お馬さまが奉安された御社殿では、神社本庁から献幣使を迎えて、その年の最も重儀である例祭が厳粛に斎行されます。


第二日目

「お馬流し」の当日、前日同様の鄭重な所作による「お馬送り式」で神社を出発したお馬さま六体は、奉戴車の上に安置され、宮司以下総代・各町の代表らが供奉して氏子各町内を隈なく巡幸されます。

お馬さまの御列を迎える各町ではそれぞれ神酒所を誂え、お馬さまの巡幸を待ちます。お馬さまの御列は各神酒所にさしかかると速度を下げ、待ち受けていた町内の氏子から神輿奉輿や獅子舞・お囃子の歓迎を受けるとともにそれぞれの地域の災厄がお馬さまに乗り移ります。各町の氏子から親しく見送られたお馬さまの御列は、本牧埠頭先の本牧漁港へと進みます。

本牧漁港では、舳を美しく装飾した木造祭礼船二艘に船方町の氏子たちが乗り組んで待ち受けています。奉戴車から降ろされたお馬さまは、神社境内と同じ様に頭上奉戴の所作で祭礼船へ向かいますが、船の二十歩ほど手前に来ると、奉戴者六名は一旦全員が止立して息を整えたのち、それまでの緩歩からは一変して祭礼船めがけて駆け出し(この動作を「せめ」と称します。)、祭りは一気に勇壮なものになります。


本牧の海岸が埋め立てられる前まで(昭和38年まで)は、祭礼船には30~40名の漕手が乗り込み、四挺の櫂、五挺の櫓で力強く沖へ漕ぎ出され、沖合では宮元船の合図により、お馬さまを海上に流しました。祭礼船は流すと同時に左回りに船首を陸に向け、ケガレから一刻も早く逃れる如く、力漕し各船の競漕となりました。海岸では色分けした布を振って各町の人々が応援し、古くは勝ち船の順で神社に参詣したと言います。

祭礼船は古くは六艘から五艘、戦前には四艘、戦後は二艘となり、埋め立て後は漁船を借用して神事に充てていましたが、平成25年に木造祭礼船の修理復興が行われ、50年ぶりにお馬さまを奉戴して本牧の海に漕ぎ出すことができました。

世界的貿易港であり、常に先進的な文化を受容・発信し続けているヨコハマの一角に、こうした古い神事が、今にその精神性を保ちつつしっかりと継承されていることは、氏子住民の篤い信仰と郷土愛の表れと言えるでしょう。

御祭神