本牧十二天社と本牧神社

本牧神社(旧称・本牧十二天社)は旧来、本牧岬の先端(現本牧十二天一番地)に張り出した出島の中に鎮座し、巨古木蒼然たる杜に囲まれ、鳥居の脚元には波濤打ち寄せる風光明媚な鎮守様でした。その様子は江戸名所圖絵にも「本牧塙 十二天社」として描かれ、江戸湾を往来する廻船からは航海安全の神、地元民からは生業の守護神と崇められ、八百年以上の永きに亘り本牧の地に鎮座して人々のあつい信仰を受け続けていました。 伝記には、建久二年(1192年)、源頼朝公が鎌倉幕府を開くにあたり、鬼門(北東の方角)守護を祈念して平安時代から存せる神殿に六尺×四尺の朱塗厨子を奉納したとあります。  

また、鎌倉将軍惟康親王より社領の寄進を受け、さらに室町中期には、関東管領より社領の寄進を受けました。天正年間には徳川家康公の関東入国に際し、高十二石免御朱印の下知があり、以来、徳川十五代将軍より「御代々頂戴」―とあり、方除け、厄除けにご神徳が顕然として、武家や庶民から篤く崇敬されていた様子が判ります。また、別当寺であった多聞院の由緒書によると『弘長三年(1263年)正月元朝、滄波洋々たる海中に炫爛として皎明を発し、一の大日靈女命(天照大御神)の像、今の社地の海岸に漂い給いしを郷人恭しく祠宇を建て、本村の総鎮守と奉斎したり。去るほどにいつの頃か僧侶の手により本地垂迹の説を継いで仏説十二天(日天、月天、火天、水天、風天、地天、梵天、毘沙門天、大日財天、閻魔天、帝釈天、羅刹天の十二神)を神前に祀り、本体大日靈女命を深く秘したり(今に古老は当の本体は本殿の背後より拝するものとする風あり)』とも記されており、十二天社の呼称のいわれを伝えています。

 一尺二寸の十二体の天像は、明治初年の神仏分離令によって分けられ、本体の大日靈女命を祀って「本牧神社」と改称されました。

      


戦後の本牧神社

先の大戦において、横浜は大空襲の惨禍により市街の多くが焼け野原となりました。更にこの本牧地区は、終戦直後の昭和21年から、二十三万坪に及ぶ進駐軍の強制接収に遭い、以来、平成5年までの47年間、当神社も往古の境内地を失って本牧町二丁目への仮遷座を余儀なくされ、多くの氏子共々、苦難の時期を過ごしてきました。  

米軍の接収が解除とともに、返還地域一帯は横浜市による区画整理事業が行われ、その結果、当神社の境内地は従前の「本牧十二天」ではなく、現在の「本牧和田」に換地されることとなりました。 こうして50年近くの長い間、仮遷座を忍ばれながら氏子とともに苦楽を共にされた大神様の御神恩に感謝の誠を捧げるべく、氏子崇敬者の浄財を募って御造営されたのが現在の御社殿です。まさに本牧神社の戦後の歩みは「ハマの戦後復興史」そのものと云えましょう。


信 仰

大日靈女命は日本書記に天照大御神の別名として大日靈女貴神(おおひるめむちのかみ)として御名が記されていますが、当神社に於いては古くより大日靈女貴命様の御名で手厚くお祭りされています。 御神徳は、「日の大神」として万物の生成を司り、遍く人を照らし導かれる神様です。天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が高天原よりこの国土に降臨される際には、大御神自ら斎庭(ゆにわ)で育成された稲穂を授けられ、この故をもって我が国に稲作文化が定着し繁栄するに至りました。また、大御神は、国民が生業とする様々な産業をお開きになり、日の本の国の繁栄はまさしく大御神の御神徳によるものと、私たち日本人は信じてきました。当神社の御祭神としては、「本牧沖合の大海原から顕現された」との社伝から、漁業や海運を生業とする人々には「大漁満足」や「航海安全」の神として、また、農耕に携わる人々には豊作の神として、地域の安全と繁栄を守護される御神徳が古くから篤く信仰されてきました。また室町時代より連綿と受け継がれる「お馬流し」は、地域社会全体から氏子・崇敬者一人ひとりに至るまで、あらゆる災いを祓い退け、清らかで健やかな日々が過ごせるように祈る力強い神事です。この特徴的な神事を氏子と一体となって厳修し続けてきた当神社は、その故に厄除け・除災招福・方除け・家内安全・商売繁盛・事業繁栄・心願一切成就等の幅広い御神徳を景仰する多くの参拝者で、御社頭は常に賑わいを見せています。